『カンバセイション・ピース(保坂和志)』


カンバセイション・ピース


 いつもの保坂和志の小説のとおり、特に事件らしい事件は起こらない、というより描いている中心は「私」が考えていることであり、その契機となるエピソードが説明されるために「私」の日常が語られる。のだが、さすがにこれは長い。


 一般的に物語には緩急がある。が、この物語の流れは、描かれる日常ではなく「私」の思考の起伏が作っている。もちろん、ある程度派手な日常の動きは思考の起伏に影響する。たとえば従姉が見た謎の影の話。こう書くと、実は意外な正体が最後に判明しそうだが、そういうことではない(正体について「私」の解釈が語られるのは確かだし、本作で重要なところではあるが)。うーん、正直、野球話コーナーは斜め読みしたのでございますが、逆に言えば野球が好きな人はこのコーナーから入りやすいのかもしれない。


 小さい頃に住んだことのある古い日本家屋には、昔と同じように大勢が集う。小さい頃を一緒に過ごした従兄姉たちとの思い出は頻繁に思い出され、現実との境界は意味をなさない。「私」の中では、誰かと「二人で一緒に物や風景を見ればもう一人の視線も取り込む」のだった。熟考し、時に突然考えていることの断片を口にする「私」と、彼の周りの人たちの会話、つまり考えの材料となるエピソードの普通っぷりは、日常にあふれる豊かさを印象付ける。


 「私」がたびたび思い出すのは、亡くなった伯父伯母、そして猫のチャーちゃんのことで、つまりは今見えないものの存在について「私」は考え続ける。この話は、最近友人が急逝したこともあり、「私」の考える軌跡を追ううちに、全然違うふうに「死」について考えていたのも、なんだかずいぶん読むのに時間がかかった原因かもしれない。


 従兄姉たちのかしましい様子はなんだかふと佐々木倫子のマンガみたい、と思ったのは単に「月館の殺人」を最近買ったからという理由だけかもしれないけど、一旦そう思うと「私」がハムテルみたいに思えてきて、これはこれで楽しいのであった。でも、実際こんなふうなかしましいおばちゃんたちがいたら、ずっと一緒にいると苦痛かも。


 「私」の妻、理恵と姪の大学生ゆかりの会話が面白い。理恵の言っていることはなかなか真っ当なんだけど、子供相手にいちいち「バカね」というところはそれこそちょっとバカな気がしたり。でもこういう人っているなあ。


 もちろん今回も、猫たちの可愛さいっぱいである。彼らが誰になついているとか誰にかみつくとか、餌をどのように食べるとかどのように歩くとか、多分「私」の思考に関係するのは主に「かわいい」ということである種すっごい冗長なのだがこれは許すのであった。太っちょのジョジョが長生きすることを祈る。