『スイミング・プール』(監督:フランソワ・オゾン、出演:シャーロット・ランプリング、リュディヴィーヌ・ サニエ)

やー、映画らしい映画を観た。心地よい酩酊感というか。
ミステリーっぽい要素がどのくらいなのかなというのが気になり、あちこちの紹介を読んだら、どうも読みすぎたらしくラストであまり驚けなかった。観る方は気をつけましょう。「殺人事件」に期待し過ぎると肩透かしをくらいますが、ネットで解釈を読み漁りたくなる作品です。

差し障りのないあたりから感想を。
噂通り、ランプリングとサニエがすごい。奔放な娘ジュリーを演じるサニエは『8人の女たち』の役と同一人物とは思えない見事なプロポーション。一方あどけなさの残る顔だちは、目鼻立ちが華やかなわけじゃないのに印象的で、この役に必要な奔放さと繊細さを備えている。イギリス人ミステリ作家サラを演じるランプリングは、最初の「堅苦しい独身女性」から、次第に見せる穏やかな、艶やかな、晴れやかな表情のコントラストが見事。ただ「美しい」では片付けられない成熟した女性の魅力。
南フランスの穏やかな気候、緑に囲まれた静かな別荘、何か起こりそうな雰囲気を漂わせつつ決して邪魔はしないエレガントな音楽、そしてプール。優雅な舞台にも魅了されました。
描かれるサラとジュリーの若さへの羨望だけでは終わらない関係は非常に面白く、時にはいろんな意味で裏返るところは女性の支持が高いのも納得。
以下ネタバレ含みます。

(ねたばれ→)

で、率直に言えば、サラの抑圧されていた願望が一挙に花開き、作品になりました、というわけですが、じゃあどこからが妄想、そして創作だったのだろう?ジュリーって実在したんだろうか?というところで意見がいろいろ分かれて面白い。

オゾン自身のノベライズがあるらしく、それを読んだ人ががっかりしていて(URLを忘れてしまった)、どっちにしろ映画に出てくる要素すべての整合がとれるわけではないらしく、むしろ世界感を限定されてしまうみたい。でも逆に、ノベライズに書いてない部分が面白い描写だったら、それはオゾンが映画監督として天才だということなのかもしれない。という意味では興味があるんだけど、ひとまず読まずに思ったことを書いておこうと思う。

サラが普段暮らすロンドンとは異なる陽気、ベランダからプールが見える心地よい部屋。これが既にサラの妄想だったという説もとれそうだけど、妄想が始まるには何かきっかけが必要なわけで、別荘に行ったこと自体は本当なんじゃないかと思う。多用される鏡、そして大量の水を抱えるプールと心理学的解釈をしてくれとばかりの材料。そして、かなり明確に提示される十字架をはずすシーンが、現実と妄想の切り換え地点なんじゃないだろうか。モラルから解放されるというか。ちょっと普通すぎるかな。

ラストで本当の(少なくとも正妻の)娘ジュリアが父親を訪ねて表れたときの解釈がやっぱり微妙なところで。
別荘にはジュリアがいて、サラと一緒に過ごしていたとしたら、知人であるサラに挨拶しないのは不自然。
別荘には本当の娘ではないジュリーがいて、サラは娘だと思っていたとしたら、別人ジュリアに驚くはず。
そうなると、別荘ではサラひとりで過ごしていて、ジュリーは妄想、本当の娘がいるのは知っていたがジュリアとは初対面。本当はあんな風だったのね、と想像したのが、プールをはさんでサラとジュリアが手を振りあうシーン。ということになる。
でもそれもちょっと、細かい要素が全て妄想、というのはなんだか寂しいんだけどなー。
ノベライズでは整合が取れていない、という噂だからオゾンの真相は異なるのだろうか。

最後に出来上がるサラの小説『スイミング・プール』にどこまで書いてあるのかはわからないけれど、あっけない(←ねたばれ)殺人事件は編集者ジョンへの痛烈な仕返しだなあ。だって動機が「あなたのため」「作品のため」(←ねたばれ)だもの。